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橋本淳 (作詞家) : ミニ英和和英辞書
橋本淳 (作詞家)[はしもと じゅん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はし, きょう]
 【名詞】 1. bridge 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [さく]
  1. (n,n-suf) a work 2. a harvest 
作詞 : [さくし]
  1. (n,vs) song making 
作詞家 : [さくしか]
 【名詞】 1. lyric writer 2. lyricist 3. songwriter
: [いえ, け]
  1. (suf) house 2. family 

橋本淳 (作詞家) : ウィキペディア日本語版
橋本淳 (作詞家)[はしもと じゅん]

橋本 淳(はしもと じゅん、1939年7月8日 - )は、日本の作詞家である〔言葉の達人 第29回「橋本淳」さん 歌ネット、2015年8月24日閲覧。〕〔橋本淳氏インタビュー ジャッキー吉川とブルーコメッツ公式ウェブサイト、2001年11月20日付、2015年8月20日閲覧。〕。本名は与田 凖介(よだ じゅんすけ)、詩人児童文学者与田凖一(1905年 - 1997年〔与田凖一 コトバンク、2015年8月20日閲覧。〕)は実父である〔〔。すでに2,000曲を超える楽曲を発表し、『ブルー・シャトウ』、『ブルー・ライト・ヨコハマ』、『亜麻色の髪の乙女』のほかグループ・サウンズ(GS)の作詞を多く手がけ、オリコンチャート解析において「GS関連で最も売れた作詞家」としても知られる〔。日本音楽著作権協会全信託作家〔作品データベース検索サービス 検索結果、日本音楽著作権協会、2015年8月24日閲覧。〕。
== 来歴・人物 ==
1939年(昭和14年)7月8日、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)に生まれる。第二次世界大戦中の幼少期は、父の出身地である福岡県に疎開したが、戦後、父が東京都北多摩郡三鷹町(現在の三鷹市)に復帰するとともに、東京都内で育つ。小説家になるべく、10代のころから、父によって一流作家のもとに預けられていたという〔。
筒美京平とは、青山学院高等部時代からの先輩後輩の間柄で、青山学院大学時代には、同じジャズバンドで筒美はピアノ、橋本はウッドベースを弾いていた。同学在学中から作詞を独学で学び、当時フジテレビジョン社員で作曲家すぎやまこういちに見いだされる〔。すぎやまとの出会いは、1961年(昭和36年)、大学4年生のときに同級生に勧められ、その兄の友人であるというすぎやまと青島幸男に会ってみた、というのが最初であった〔。すぎやまは初対面で自作の楽曲に歌詞をつけろと言い、それに応えたのが最初であったという〔。やがて橋本は当時、同学在籍していたが、そのまますぎやまに弟子入りし、テレビ番組ザ・ヒットパレード』(1959年 - 1970年)や『おとなの漫画』(1959年 - 1964年)の手伝いを開始した〔。半年後には、ジャッキー吉川とブルーコメッツと橋本に対し、すぎやまが「オリジナルの日本のポップスを」と発注し、番組で放送するための新曲をつくらせた〔。1962年(昭和37年)3月の同学卒業後もそのまますぎやまのもとで番組に関わったが、その流れのなかで生まれたのが、1966年(昭和41年)3月10日に発売されたジャッキー吉川とブルーコメッツ『青い瞳』(作曲井上忠夫)であったという〔。シングルレコードとして発売された最初の作品は、その4か月前である1965年(昭和40年)11月にキングレコードからリリースされたボニージャックス『ボンド小唄』(作・編曲すぎやまこういち)であるといい〔、公式なデビュー作は同年12月10日発売の紀本ヨシオ『だから泣かないで』のB面曲『涙のギター』(作・編曲すぎやまこういち)であるとされる〔。1967年(昭和42年)3月15日に発売された『ブルー・シャトウ』(作曲井上忠夫)は、150万枚を売り上げ、同年末には第9回日本レコード大賞を受賞した〔過去の『レコード大賞』受賞者一覧 TBSテレビ、2015年8月20日閲覧。〕。
学校時代の後輩の筒美とは、藤浩一(現在の子門真人)と望月浩の競作『黄色いレモン』で初めて作家としてコンビを組んだ〔ソニー, p.45.〕。同作の作曲者のクレジットは「すぎやまこういち」であるが、当時、筒美は日本グラモフォン(現在のユニバーサルミュージック)社員であったためである〔, p.16-17.〕。当初、望月浩の楽曲として開発が行われたが、すぎやまの弟子である藤のレコードのほうが先に発売された〔。藤版が1966年8月15日、望月版が同年9月5日の発売である。同作は、同年中に、泉健二リトル・パティらのシングルB面でもカヴァーされた。筒美とは、1968年(昭和43年)12月25日に発売されたいしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』でコンビを組み、同作も150万枚を売り上げ、翌年末の第11回日本レコード大賞で筒美が作曲賞を受賞した。筒美との楽曲は1997年(平成9年)の時点で550曲を数え、同コンビでの最大のヒットは、いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』である〔ソニー, p..〕。
グループ・サウンズの作品に於ける作詞で脚光を浴び、以降、1970年代1980年代にかけては歌謡曲でも数多くのヒット作を生んだ。
競馬好きで知られ、競馬界にもコネを持っていた。1990年(平成2年)、JRA系列の競馬場内におけるミニFM局に纏わる利権問題への関与が発覚〔「中央競馬会課長が収賄 放送業者の選定に便宜 場内用のFMなど 230万円を受け取る」「業者は作詞家 ブルーライト・ヨコハマ」 朝日新聞 1990年7月5日付け夕刊(東京最終版23面)
「中央競馬会課長ら逮捕 ミニFMで贈収賄 発注に便宜、現金230万円」「業者の2人 作詞家『橋本淳』も」 日本経済新聞 1990年7月5日付け夕刊(東京最終版17面)
このほか、1990年7月5日付けの毎日新聞夕刊(東京最終版1面トップ)、同日付け読売新聞夕刊(東京最終版15面)にも同じ旨の記事あり。
〕、これ以降は表舞台に出る機会が少なくなったが、現在も作詞家として創作活動を続けている。MISIAを発掘したことで知られる音楽プロデューサー、ユニバーソウルスタジオ代表の与田春生は橋本の子息であり〔Vocal Workshop 、ユニバーソウルスタジオ、2015年8月24日閲覧。〕〔音楽ビジネスとテレビ 新・週刊フジテレビ批評フジテレビジョン、2014年7月26日付、2015年8月24日閲覧。〕、橋本は「作品を提供したいアーティスト」として歌ネットの問いに「MISIA」と回答している〔。「あまり売れなかったが、私の好きなこの歌」としては、筒美と組んだ西田佐知子くれないホテル』(1969年4月5日発売)を挙げる〔。弟子に中村容子がいる。
亜麻色の髪の乙女』は、2003年(平成15年)5月21日、2004年(平成16年)5月19日にそれぞれ発表された第21回および第22回JASRAC賞では、いずれも銅賞を2年連続で受賞した〔2003年JASRAC賞 「千と千尋の神隠しBGM」が金賞を受賞 日本音楽著作権協会、2015年8月24日閲覧。〕〔2004年JASRAC賞「世界に一つだけの花」が金賞を受賞 、日本音楽著作権協会、2015年8月24日閲覧。〕。2011年(平成23年)12月30日、第53回日本レコード大賞で功労賞を青山和子(1946年 - )、永六輔(1933年 - )、寺内タケシ(1939年 - )、畠山みどり(1939年 - )とともに受賞した〔第53回日本レコード大賞各賞 スポーツニッポン、2015年8月24日閲覧。〕。日本作詩家協会には加盟していない〔は行 日本作詩家協会、2015年8月24日閲覧。〕。
日本のジャズ・サクソフォーン奏者‎である橋本淳(1902年 - 1987年)とは無関係である〔橋本淳 、コトバンク、2015年8月20日閲覧。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「橋本淳 (作詞家)」の詳細全文を読む




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